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sonmei’s diary

主に読書記録です。拙いです。

安部公房「問題下降に依る肯定の批判」を読んで

 

安部公房全集〈1〉1942.12‐1948.5

安部公房全集〈1〉1942.12‐1948.5

 

 

 安部公房という作家の小説は「砂の女」を大分昔に手に取った記憶があったが、なんとなく男が砂丘の中の集落に閉じ込められるような話だったような気がするほどにしか覚えていなく、今はそれなりに時間には余裕のある生活を送っているので図書館で全集の一巻目を借りてきた(ついでにスティーブン・ミルハウザーの「マーティン・ドレスラーの夢」(訳:柴田元幸)も)。

 この全集第一巻には、著者が18歳から24歳の間に書いた文章が収録されている。奇しくも私と同い年。エッセイであるということの他は何の前提知識もないままとりあえず読み進めて行くと、同い年の青年が書いた文章とは思えないくらいよくわからない。よって段落ごとにかみ砕いてノートにメモしながら読んだのでいささか時間がかかってしまった。とりあえずこんな内容であると謙遜抜きに多分に稚拙ながらまとめてみた(読み違いしてたら誰か教えてください)。

 

 我々の間には反省という言葉の言行不一致が屡々(「しばしば」なんて読めますか?)見られるが、真の反省の意味に至らずに反省という言葉を用いしかもそれすら気がついていない人ばかりなのが不愉快だ。多くの人間は反論するだろうが実際に其の問題にたどり着くまたはその意思に基づき努力する人間は実に少ない。

 反省は問題を基底、例えば人間存在に落とし込むことであるが、我々の下す断定が何によって、どの座標によって定義づけられているかについては無限に繰り返されてしまう。よって座標なくして判断を有り得させるためにはまず至極当然なことだが現在の我々の立場の認識が必要になる。この認識なしにはあらゆるもの、つまり美しさや愛とか信仰とかが単に動物的な有機的存在ないし心的存在価値に平面化されてしまう。

 (そして高等学校において立場の認識を重要であらしめるために高等学校が「思想の遊歩場」であるための条件を提示する)

 次に筆者は、真の反省とは己の行為に偉大なる蟻を見出そうとすることと形容し、問題下降についての自説(自身で面白いと思っているらしい)へ展開していく。すなわち精神の形成は何か有るべからざる不自然な状態であって、元来肉体は初めから精神に耐えうるようには作られていなかったのではないか、それゆえ現在の場所からの前進も後退も同じような不自然さをもつので、結局問題下降を唯一無条件肯定するしかないということである(たぶん…)。

 加えて、我々は学校において学び取るものを真理の象徴などと過度に礼讃するきらいがあるけれども、それは方法の方法たる趣味のようなものであるので因習の策を断ち切って根底的な反省をしなくてはならない。

 ここまで来て読者は著者の説について、結局動けというはいいものの行くべき方向について沈黙していることに関して強い疑惑を抱くだろうが、過去の偉人達も、特に健闘したニーチェでさえも、やっと百歩進んだにすぎないのだから示せるわけがない。しかしせめて手と指と目とを動かすだけでもいいから、最初の肯定を生み出していくべきである。みんな頑張れ!

 

 という内容である。最近ようやく西洋哲学を勉強し始めたので(手始めに今道の友信「西洋哲学史」)、背景にある思想が何を出典にしているのか、どう展開しているのかはちょっとわかりようがないのだけれど。

 ただ、最近反省ばかりしているつもりの私だが、公房青年の言っていることにはなるほどと思われる部分がある。私が反省するのは、常に自身の犯した過ちについてである。

①この時、こうしていればよかった(ここでひどく落ち込む)。

②しかし経験がないのだから仕方ないじゃないか(こうして自分を慰める)。あるいは今ここで間違えていてよかった、この経験は自分にとって必要だったんだ、いやこれは運命といってもよいね(ある種の開き直りもしくは空元気)。

これが私の反省のプロセスである。あまり重く考えると病んでしまうのでできる限りこうしようと考えていたが、確かにこれではいささか平面的である気もしてくる。前進も後退も後退も同じように不自然なものであるのならば、私の反省手順からは何も生み出していない。ただ、わかったような気にさせられるだけではないか。

ここで目下反省していることを例に挙げてみよう。

センター試験で僕はリスニング除いて合計点600点台前半だった(勉強してないんだから当たり前)。

②来年の足掛かりのためにできれば東大(文系)を受けたいが、センターリサーチの判定だとぎりぎりっぽいし足切り食らって受けられないくらいなら別のところをとりあえず今年は受けるか→別の大学を出願

足切り文一なら余裕だったことが判明

ここから私が得るべき教訓は何なのだろうか。いや、センター9割とれよとかセンターリサーチの判定厳しいの把握しとけよとかは置いといて、やっぱ人間存在ですよ皆さん。受験生でも予備校生でもない不安定な身分である現在の立場の認識からスタートし、私がどうして偉大なる蟻に過ぎないのか。それについて考えなくてはならないのだろう。どうすればいいのかは難しいが。

 蟻で思い出したが、化物語のコメンタリーで羽川翼は2・6・2の法則について話していた。働きアリの中でも一生懸命働くのは2割だけで、6割が支える、そして2割が怠けるということだが、怠け者の定義は観察者によって異なるのだから2割の怠け者も実は重要な仕事をしていて、むしろ待機要員としての効率性の回復を担っているのではないかという話(詳細は忘れた)。

 そうはいってもできることなら先頭の2割に属して、無限に循環している巨大な蟻の巣から出口を見つけるために邁進したいなぁと思います。

 とにもかくにも18歳でこんな文章かける奴は身近に皆無だ。やはり今の日本の若者にはこうした天才はなかなかあらわれないのだろうなぁ。