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sonmei’s diary

主に読書記録です。拙いです。

川上未映子「わたくし率 イン 歯ー、または世界」を読んで

読書記録

 読みたいと思いつつ手を付けていなかった川上未映子の小説を一読(特にブックオフなんかだと弘美の方はいつもあるのにこっちはなかなかみつからないですよね)。 読み始めてすぐに関西弁が席巻していることに驚き。関西弁loveな人間ではないので最初辟易していたものの、朗読しながら読んでみると会話調で淡々と進む文章のリズムが非常に心地よいことに気づく。もちろん関西弁に特別そういう作用があるとは思わないのだけれど。

 <わたし>は並列な可能性の中から、形而上の自分が奥歯の中にあると定義する。自身が肯定感の持てる仕事を探して化粧品の販売員から歯科助手に転身するのだが、ここまで来て僕は小学校のおそらく道徳の授業で自分の心は体のどこにあるのかという質問を担任教師から投げられたことを思い出した。 直前にクラスでも博識で有名で、クリスマスプレゼントに算数ドリルを頼んだ少年が「脳」と応えていたので僕としてはそれとは違う答えを言わなくてはならず、まぁ脳だけあってそれだけで思考もできないしそもそも不可分なものじゃないかということで「体全体?」なんて答えた。こういう時に教員は何かの受け売りか知ったかぶりか、挙句の果てに皆さんどう思いますかと多数決をとったりして濁すので端的に言って糞だ。「奥歯です」とか言っとけばよかった。

 それはともかくとして、それからは<わたし>の恋人の青木と未来のわが子に対しての日記とも手紙ともつかぬ文章や同僚の三年子からのいやがらせなんかの後に歯科医院にやってきた青木のもとへ走っていき、すべては彼女の妄想なのが露見し、なんとなく彼女が奥歯に執着する理由が分かってくる。最後におそらく母親になった彼女が子供の永久歯が生えてこないのを心配しに頻繁に歯科医院に通っているので話が終わる。

 話の筋がどうこう以前に(普通におもしろかったです)彼女が肌が紙やすりみたいでブクブクに太った醜女だということに驚いた。僕の勝手な想像だが、歯科助手にはある程度美人である必要があろうと感じていたからだ。人さまには基本的には見せることのない空間を見せるわけであるから、男性医師はともかくできればきれいな女性に見てもらいたいというのは多かれ少なかれあると思うのだ。多分男性作家だったら美人ということににするんじゃないかなぁと思う。もっともみんなマスクをしているので現実の歯科助手が美人かどうかなんて知らないし、僕は虫歯もないのであんまり厄介になる機会もないのだが。

 そうはいっても最近自分の歯が気になる。最近自分の歯が気になる。歯列が狭く内側に向かって生えている下の歯や少し前方向に傾いて開口気味の前歯なんかが気になってスマホの鏡のアプリなんかを使ってちょくちょく観察している。横から見た顔はEラインというには口元が少し出っ張っていたりと審美的な面でも機能的な面でも少しばかり気になるのだが、強制するには中途半端だし、傍目には歯並びの悪さがほとんど気になるものではないのでわざわざ高い金を払って施術しようとは僕の親は思わなかったらしいがやっぱり気になる。おそらくこの小説を読もうと思ったのにもそんなわけがあるのだろう。

 彼女の子供への日記は8個あり、それはすべて7月の晴れた日の事なのだけれど時系列がバラバラで同じ年に書かれたものとは思えないし、それならば8年かけて書かれたことなのかパラレルワールドの事なのだろうか。あるいは批評家の人間は理解できているのかもしれないが私にはわからない。精神病者の時間感覚は興味深い。 奥歯が自分自身だとすると、青木の奥歯を抜こうとしたのは失望からくるとっさの殺人感情だろうし、自分の奥歯を抜いたのは自分が何者でもありたくない思う(オビト?)ことによる自殺願望だろうし、そう思うと話は一気に生々しくなる。ある種の強迫観念であろう三年子のいうように「あんたいま最悪なことになってんねんで!」状態。最後の母娘の様子がここでは救いとして書かれてるのだろうな。 総じて感想は「衝撃的」。

 

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

 

 

上遠野浩平「ブギーポップは笑わない」を読んで

読書記録

 

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

 

  名高いライトノベルであるこの小説を読んだ。調べて知ったがどうやら「ブギーポップ以前、ブギーポップ以後」という言葉もあるらしい。「今夜もブギーバック」みたいな名前をしていてなかなか洒落たタイトルだとも思っていた。そしてライトノベルが自分が生まれる前から存在しているものだということも初めて知った。てっきり電撃文庫は直観として2005年くらいに創刊されたものだと。

 超能力系のライトノベルだから初めから戦闘描写が多いものだと思っていたが実際には第五話のハートブレイカーまでほとんどない。群像劇で、中核の登場人物以外は基本的には物事の真相までたどり着かない。

 もちろん軽い文体でスラスラ読み進められるし、普通に面白かった。ただライトノベルでは伝説とされているけれどそれはあくまで時代的なもので、ライトノベルの方向性が大きく変化したという意味で伝説なのだろうなと思った。

 話の筋としては非常にわかりやすい。人類を試すために地球に送り込まれたエコーズが人間につかまり研究対象となるがコピーして作ったマンティコアは凶暴な性格の持ち主で研究所の人間を皆殺しにして脱走する。星の環境バランスの維持のためにエコーズはマンティコアを処理しようとするが途方に暮れるところを紙木城直子に保護される。一方マンティコアは深陽高校内で女生徒に変身するために殺人を犯したところを早乙女正美に見られ殺そうとするが、協力関係を結び他の生徒を獲物にしていく。偶然彼らは紙木城と遭遇し殺してしまうが、エコーズが学校まで迫っていることを悟る。早乙女は彼女の失踪を利用して田中志郎と新刻敬を隠れ蓑にしエコーズとその仲間の霧間凪をおびき寄せる。彼らは重傷を負うがエコーズは自爆によって早乙女を焼失させ、マンティコアを弱体化させる。マンティコアは新刻を殺そうとするが突如現れたブギーポップに邪魔され、田中志郎に弓で頭を撃ち抜かれ死亡し、無事危機は去る。という内容。

 けれども疑問は多く残る。

霧間凪はなぜ正義の味方になったのか

・木村昭雄に手紙を送った人物(おそらく田中志郎ではなくブギーポップじゃないか)

ブギーポップが生まれる経緯(早乙女正美はが確か木下異常な幼児体験といっていたからおそらく五年前の夫婦間のいざこざとは別)

・末真和子が狙われた事件の真相

・エコーズ、マンティコアの研究機関のこと

・そして送り込んだもの彼らの正体

・紙木城なぜはエコーズの意思が読み取れたのか

など

 ここまで疑問が残ると以降のシリーズ作品を姉妹作とはいえなくないか?

 読んでて気に入ったのは第一話と第四話があまり本筋と関係ないところだ。この小説の中で最も遠い立場の竹田啓司と木村明雄が主人公で、正直なくても話が分からないというほどのものではないのだけれどこの章があるおかげで物語に没入しやすくなる。群像劇として非常に上手いなと思った。

 残念だったのは紙木城が死んだのがあっけなさすぎること。

 早乙女正美は当初霧間凪に殺されたいと思っていたがこの間「相棒15」で北一幸の獄中結婚の相手が彼に自分を殺すようにお願いしたのと似ているなと思った。もっとも彼はその後反対に自分が殺人を犯すことになるが。タナトスとエロスはリビドーと表裏一体といっても私にはさっぱりわからん。

 青春小説の登場人物って大概が美形で女にもてる人間が出てくるが、そういう描写はあまり書き加えるのに必要ない気がする。それともやはりそういう人間でないと刺激的な話を作ることはできないのかしら。でも読者層としては非リアの方が多いんじゃないか?やっぱり憧れがあるの?そしてかなり自由な男子校の高校の出身である私はどうしても共学を舞台にした小説が出てくるときにリアリティを感じられないのである。公立の中学校みたいなものかなとは思うけれど。

 

 読みながらしおりくらいつけておけばよかった。記憶が曖昧になるし軽く見返しても探したい箇所がみつからないし。

レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」を読んで

読書記録

 

  つい2日前に村上春樹の新作長編「騎士団長殺し」が発売になり、どの書店でも最も目立つ場所に、それ自身が発売を記念するオブジェのように人々の胸のあたりまで高く積まれている。私自身は中一の頃に「海辺のカフカ」に衝撃を受けて以来の村上春樹ファンである。それほど読書家なわけでもないけれど、彼の作品は短編長編エッセイ問わずほとんどの作品が家の本棚にある。ただ巷でハルキスト(村上春樹自身は村上主義者と名乗ってほしいと言っていたのを確か村上さんのところで見た気がする)と呼ばれている村上フリークのようには深く読み込んではおらず、どちらかというとライトノベルの感覚で流すように読んでいた。正直彼の作品はラノベ表紙でも十分違和感ない気もするし、それだけ平易な文章が彼の作品の魅力でもある。

 「騎士団長殺し」はamazonで届いていたので早晩読むとして、その前に私は「ロング・グッドバイ」という村上春樹によって翻訳された小説を読み終わった。翻訳作品に関しては「グレート・ギャッツビー」や「人生のちょっとした煩い」、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」そして「フラニーとズーイ」を手に取ったことがあったが、どれも読んでいて楽しい気分になることはなかったし、途中でやめてしまった(いずれ読むことにはなるだろうが)。私は海外文学なんて奨学生の時読んだハリーポッターシリーズくらいしかまともに読んだ本はない(さすがに言いすぎか)。海外に行ったことのない(飛行機に乗ったこともない)ので海外を舞台にした小説は貧弱な想像力の下でしか読むことが出来ないと感じているからだ。日本を舞台にした話であれば、仮にも18年間生きているので脳裏には日本の風景というものがしっかり印象付けられているのに対し、海外を舞台にしたものはほぼほぼハリウッド映画のシーンにいくらか手を加えた形でしか考えることが出来ないからだ。加えて英語は一応勉強しているわけだから、翻訳に今手を出さずに自分が英文がスラスラ読めるようになってから読めばいいものだと思っていた。しかし未だにその境地には至っていない。「ロンググッドバイ」はそれなりに厚い本だったし、村上春樹の翻訳なら彼の作品世界を理解するうえでも読んでおくべきだろうということで、久しぶりに海外文学を手に取ってみた。

 とりあえず最初に巻末の村上春樹による解説に目を通して見た。総計50ページほどもあり、本編読まなければわけがわからなかったが、この小説は彼が高校生の頃に初めて手に取り、それから折を見つけては何度も読み返してきた小説なのだそうだ。小説を読み進めていても、文章のリズムは村上春樹のそれとなんとなく似たような気もするし、例えば単体で用いる「あるいは。」といった彼の小説によくみられる表現も随所に見えた(これは清水俊二の場合でもそうなのか、彼がこうした英語の小説を読んで好んで使うようになったのかはわからない)。ただ小説世界は村上作品のそれとは大きく異なるし、フィリップ・マーロウのような人物は出てこない。マーロウが自身の自我を読者に対し巧妙に隠すのと反対に、基本的にやわな村上作品の男性たちは、「やれやれ」と周囲に対して距離を取りながらも自我をさらけ出さずにはいられない。そして彼自身がいうように、村上春樹の表現のリズムを感じながらも、その背後にはレイモンド・チャンドラーという血肉の通った人間の存在をありありと感じさせる。彼の独特の文体は、想像力が蚤の糞ひとつまみ分ほどしかない私にも、アイドル・ヴァレーのロジャーウェイドの屋敷やヴィクターズというバーやレノックスがメキシコの安ホテルで手紙を書いているところなんかをかなり鮮明に想像させた。

 こういうハードボイルド小説は読んでいて楽しい。学園モノや一部の異世界モノや歴史小説なんかは相変わらず苦手だが。

 昔nhkでドラマ化したらしいから機会があったら見ようと思う。

 

 もっとちゃんとした感想をかけるようにならねば。

安部公房「問題下降に依る肯定の批判」を読んで

読書記録

 

安部公房全集〈1〉1942.12‐1948.5

安部公房全集〈1〉1942.12‐1948.5

 

 

 安部公房という作家の小説は「砂の女」を大分昔に手に取った記憶があったが、なんとなく男が砂丘の中の集落に閉じ込められるような話だったような気がするほどにしか覚えていなく、今はそれなりに時間には余裕のある生活を送っているので図書館で全集の一巻目を借りてきた(ついでにスティーブン・ミルハウザーの「マーティン・ドレスラーの夢」(訳:柴田元幸)も)。

 この全集第一巻には、著者が18歳から24歳の間に書いた文章が収録されている。奇しくも私と同い年。エッセイであるということの他は何の前提知識もないままとりあえず読み進めて行くと、同い年の青年が書いた文章とは思えないくらいよくわからない。よって段落ごとにかみ砕いてノートにメモしながら読んだのでいささか時間がかかってしまった。とりあえずこんな内容であると謙遜抜きに多分に稚拙ながらまとめてみた(読み違いしてたら誰か教えてください)。

 

 我々の間には反省という言葉の言行不一致が屡々(「しばしば」なんて読めますか?)見られるが、真の反省の意味に至らずに反省という言葉を用いしかもそれすら気がついていない人ばかりなのが不愉快だ。多くの人間は反論するだろうが実際に其の問題にたどり着くまたはその意思に基づき努力する人間は実に少ない。

 反省は問題を基底、例えば人間存在に落とし込むことであるが、我々の下す断定が何によって、どの座標によって定義づけられているかについては無限に繰り返されてしまう。よって座標なくして判断を有り得させるためにはまず至極当然なことだが現在の我々の立場の認識が必要になる。この認識なしにはあらゆるもの、つまり美しさや愛とか信仰とかが単に動物的な有機的存在ないし心的存在価値に平面化されてしまう。

 (そして高等学校において立場の認識を重要であらしめるために高等学校が「思想の遊歩場」であるための条件を提示する)

 次に筆者は、真の反省とは己の行為に偉大なる蟻を見出そうとすることと形容し、問題下降についての自説(自身で面白いと思っているらしい)へ展開していく。すなわち精神の形成は何か有るべからざる不自然な状態であって、元来肉体は初めから精神に耐えうるようには作られていなかったのではないか、それゆえ現在の場所からの前進も後退も同じような不自然さをもつので、結局問題下降を唯一無条件肯定するしかないということである(たぶん…)。

 加えて、我々は学校において学び取るものを真理の象徴などと過度に礼讃するきらいがあるけれども、それは方法の方法たる趣味のようなものであるので因習の策を断ち切って根底的な反省をしなくてはならない。

 ここまで来て読者は著者の説について、結局動けというはいいものの行くべき方向について沈黙していることに関して強い疑惑を抱くだろうが、過去の偉人達も、特に健闘したニーチェでさえも、やっと百歩進んだにすぎないのだから示せるわけがない。しかしせめて手と指と目とを動かすだけでもいいから、最初の肯定を生み出していくべきである。みんな頑張れ!

 

 という内容である。最近ようやく西洋哲学を勉強し始めたので(手始めに今道の友信「西洋哲学史」)、背景にある思想が何を出典にしているのか、どう展開しているのかはちょっとわかりようがないのだけれど。

 ただ、最近反省ばかりしているつもりの私だが、公房青年の言っていることにはなるほどと思われる部分がある。私が反省するのは、常に自身の犯した過ちについてである。

①この時、こうしていればよかった(ここでひどく落ち込む)。

②しかし経験がないのだから仕方ないじゃないか(こうして自分を慰める)。あるいは今ここで間違えていてよかった、この経験は自分にとって必要だったんだ、いやこれは運命といってもよいね(ある種の開き直りもしくは空元気)。

これが私の反省のプロセスである。あまり重く考えると病んでしまうのでできる限りこうしようと考えていたが、確かにこれではいささか平面的である気もしてくる。前進も後退も後退も同じように不自然なものであるのならば、私の反省手順からは何も生み出していない。ただ、わかったような気にさせられるだけではないか。

ここで目下反省していることを例に挙げてみよう。

センター試験で僕はリスニング除いて合計点600点台前半だった(勉強してないんだから当たり前)。

②来年の足掛かりのためにできれば東大(文系)を受けたいが、センターリサーチの判定だとぎりぎりっぽいし足切り食らって受けられないくらいなら別のところをとりあえず今年は受けるか→別の大学を出願

足切り文一なら余裕だったことが判明

ここから私が得るべき教訓は何なのだろうか。いや、センター9割とれよとかセンターリサーチの判定厳しいの把握しとけよとかは置いといて、やっぱ人間存在ですよ皆さん。受験生でも予備校生でもない不安定な身分である現在の立場の認識からスタートし、私がどうして偉大なる蟻に過ぎないのか。それについて考えなくてはならないのだろう。どうすればいいのかは難しいが。

 蟻で思い出したが、化物語のコメンタリーで羽川翼は2・6・2の法則について話していた。働きアリの中でも一生懸命働くのは2割だけで、6割が支える、そして2割が怠けるということだが、怠け者の定義は観察者によって異なるのだから2割の怠け者も実は重要な仕事をしていて、むしろ待機要員としての効率性の回復を担っているのではないかという話(詳細は忘れた)。

 そうはいってもできることなら先頭の2割に属して、無限に循環している巨大な蟻の巣から出口を見つけるために邁進したいなぁと思います。

 とにもかくにも18歳でこんな文章かける奴は身近に皆無だ。やはり今の日本の若者にはこうした天才はなかなかあらわれないのだろうなぁ。

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まもなく高校卒業を控えた者です。

国立大学入試が目前に迫っていますが、浪人すればいいかなぁと勉強せずに、とりあえず本でも読んでいる感じのどこで道を間違えたかわからない日々を送っています。

主に読書記録として運用していけたらと思っています。